MOON PHASE 雑記

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「H2O 〜FOOTPRINTS IN THE SAND〜」第11話

†その目で確かめよ。見た物を信じるな。すべてのセリフを疑え。

こ、これは、まさか、さよならを教えて…?キャッチコピーに偽りはなかった!!今まで琢磨が信じていた楽しい世界は、全て音羽の言葉によって、“出来ると思えばなんだって出来る”と思い込んでいたからこその賜だった。まさか、アニメ版「H2O」で、ここまで手の込んだ叙述トリックにお目にかかれるとは思わなかったので驚いた。ただ、見えてないと明らかにおかしい部分も多いので、その辺りの見せ方はもう少し洗練して欲しかったかな。思い返せば、目が見えるようになったはずの琢磨が、第3話で目覚まし時計の時刻をわざわざボタンを押して確認していたところからずっと違和感が付きまとっていたんだよね。公式ブログ『最後の伝言』のスチールでも確認できるように、琢磨が実は目が見えてないと言う伏線は散りばめられていたようだ。例えば、第3話でひなたにキスをされた後はやみを追いかけられなかった琢磨、第4話の海水浴で溺れてる雪路を助けようと奮闘するシーン、第6話の街でゆい様とはやみが服を着替えた際の反応や、はやみが1人で山道に向かった時にあっさり引き下がった琢磨の態度、第9話で壊れた鈴を拾い集めようとするも上手くいかない琢磨の姿や、頻りに強調していた村に響き渡る鈴の音。クラスメイトたちが目が治ったことに突っ込まなかったり、目が治ったのに弘瀬家が琢磨を連れ戻しにこなかったことも。今までの出来事は、琢磨の妄想フィルタを通したものであると言う前提で1話から見直すと、作品の色彩がまるで違って見えてくる。ただし、単なる夢オチと決定的に違うところは、琢磨に見えていたものが例え現実と異なっていたとしても、琢磨がみんなを救ってきたと言う事実だけは嘘ではないと言うこと。そして同時に、『THE FOOTPRINTS IN THE SAND - 砂の上の足跡』の詩が示す琢磨にとっての神=琢磨の友達全員だったと言うことにもなる。本当は何も見えてなかった琢磨を、ずっと背負って―支えてくれていたんだから。琢磨のハーレム構図にしても、みんなで助けてあげるために、いつも側にいたからこその必然だったんだなあ。しかし、いくらトラウマを呼び起こされて錯乱状態に陥ってたとしても、はやみを殴ってしまったのだけはダメだろう。村の総意としてはやみを消そうとする爺さんは暴走しすぎ。村の秩序を守るため、憎悪を一手に引き受けさせる抑止力としてはやみは今まで生かされてたと思ってたんだけど、やっぱり村を乱すから排除すると言って銃殺はないだろ。それなら最初からそうしろよって話だし、脚本の都合で強引にねじ込まれた感じがするよ。ラスト、なぜかワープして間に合った琢磨は、まだ開眼したわけじゃないんだよね?はやみを母親と重ねて見てるのが気になる。まだ気が狂ったままだろうし。はやみを救うことで、琢磨はトラウマから立ち直るのか?次回最終話、琢磨とはやみが幸せになれなければ、「H2O」のテーマ全否定になりかねないので、綺麗な余韻に浸れる結末であって欲しい。


それにしても、これがあり(●●)なら、ますます「車輪の国、向日葵の少女」を映像化して欲しくなったなあ。最終章で明らかになるまでは、お姉ちゃん視点でコンテ切れば良いだけの話だし。